TBSの火曜ドラマ『いろはの恋は時代(とき)をかける』で、上白石萌音演じる飛脚屋の娘「いろは」の想い人として登場する関孝和(演:Mrs. GREEN APPLE・大森元貴)は、実在した江戸時代の和算家です。今回は、後世に、「俳聖」と称された松尾芭蕉や、「茶聖」と称された千利休に倣って、「算聖」とも呼ばれた関孝和の生涯を取り上げたい。

和算とは
 西洋の数学である「洋算」に対して、江戸時代に日本で独自に発達した数学を、今日では「和算」と呼ぶ。

 和算のレベルは、同時代の西洋の数学に引けを取らないほど高かったという。

 和算を大きく飛躍させたのが、関孝和である。

 孝和の研究では、一般に「円周率の計算」がよく知られている。

 円周率は、内接する正多角形の角数を少しずつ増やしていき、その辺の長さを計算して、近似させるという方法で求められる。

 この方法は、古代ギリシャの数学者・アルキメデスの時代から知られており、アルキメデスは正96角形を使い、3.14という数字を導いた。

 孝和も円に内接する正13万1072角形の周囲を計算し、さらにエイトケン加速法(増約の法)という計算方法も加え、円周率を小数点以下11桁まで精確に求めることに成功している(以上、新戸雅章『江戸の科学者 西洋に挑んだ異才列伝』)。

 また、孝和は中国数学からヒントを得て、イギリスの数学者ウィリアム・ホーナーが1819年に発表した近似法と同じ式を、ホーナーより1世紀も早く孝案した。

 さらに、ベルヌーイ数(分数の級数)も、スイスの数学者ヤコブ・ベルヌーイとほぼ同時期に発見している。

 孝和の業績はこれだけではない。

 日本学士院日本科学史刊行会編『明治前日本数学史 新訂版』には、孝和の業績として、①傍書法と代数記号の導入による演段術の創始(これは後に変形して点竄術となった)、②行列式発見など、21項目を挙げている。

 このような業績を挙げた関孝和とは、どんな人生を歩んだのだろうか。

生年も生誕地も謎
 孝和は「たかかず」、あるいは「こうわ」と読む。

 通称を新助といい、自由亭とも号した。

 孝和の生涯に関する資料は極めて少なく、生年も明らかでない。

 幕臣・内山永明(ながあきら)の二男として、寛永年間(1624~1644)に生まれたのは確かだとされるが、具体的な生年は、寛永14年(1637)と寛永19年(1642)の両説が出ており、さらに、どちらも根拠に乏しいという。

 生誕地も、上野国藤岡と江戸小石川の二種類の説が存在する。

 孝和の父・内山永明は駿河大納言忠長(徳川忠長/二代将軍・徳川秀忠の三男で三代将軍・徳川家光の弟)の大御番を務めていたが、寛永9年(1632)、忠長は上野国高崎に幽閉され、永明は上野国藤岡に移り住んだ。

 その後、永明は寛永16年(1639)に三代将軍・徳川家光に召し出され、江戸城御天守番となり、江戸に移り住んでいる。

 ゆえに、孝和の生誕地は、孝和の生年が寛永16年以前なら上野国藤岡、以後なら江戸小石川ということになり(以上、藤原正彦『天才の栄光と挫折 数学者列伝』)、こちらも議論が続いている。

 孝和には兄が1人、弟が2人、姉妹2人(姉か妹かは不明)がおり、父母はどちらも正保3年(1646)に死去した。

 孝和は長じると、関家の養子に入った。

 養父は関五郎左衛門とされる。

 孝和が養子に入ったのは、どこの関家かは明らかでないが、寛文5年(1665)、孝和は関家を継いだという(以上、小川束『和算 江戸の数学文化』)。

数学の道に入ったきっかけは?
 孝和はソロバンの技術に長けていたと伝わり、幼い頃から大人の計算間違いを指摘したなどの逸話が残るが、孝和がいつ、どのように数学を学んだのかはわかっていない。

 数学者・毛利重能(しげよし)の弟子である高原吉種(よしたね)を師としたとも、独学で大成したとも伝えられる。

 孝和が数学の道に入った直接のきっかけは、江戸時代初期の数学者・吉田光由(みつよし)が著わした和算の入門書『塵劫記(じんこうき)』を読んだことだとされる(新戸雅章『江戸の科学者 西洋に挑んだ異才列伝』)。

つづき
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/97612