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侵略は二度と許さない 対ロ「最前線」のエストニア、急ピッチで防備強化 [きつねうどん★]

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1きつねうどん ★
垢版 |
2026/09/16(水) 11:43:58.28ID:51KN/Knd
エストニア国防軍は9月1日午前、東部の県の住民にテキストメッセージで警報を送り、「ドローン(無人機)を見つけた場合は避難するよう」に呼びかけた。これは訓練ではなかった。北大西洋条約機構(NATO)の戦闘機が脅威に対処するため緊急発進(スクランブル)し、その後、警報解除が出された。

面積約4.5万平方km、人口140万人弱のエストニアは、ロシアと300kmほどにわたって国境を接する。ロシアがNATO側への侵略行為に及んだ場合、文字どおり最前線になるのがエストニアだ。ロシアの侵略は差し迫っているおそれがあると警鐘を鳴らす人もいる。

エストニアは過去に東側からも含めて侵略された経験がある。今度そうした試みがあった場合は、事前の備えと技術への投資のおかげで、結果は大きく異なるものになる可能性がある。

歴史の教訓に学ぶ
エストニア海軍の「1号艦」という名誉称号を与えられている潜水艦「レンビット」は、タリンにあるエストニア海事博物館の目玉展示だ。世界遺産の歴史地区にある本館から少し歩いた海沿いにある、かつて水上飛行機の格納庫だった建物に鎮座している。エストニア向けに英国で建造され、1936年に進水したレンビットは、当時の軍事技術の最先端を体現する存在だった。

レンビットは魚雷発射管を4基備えるが、主兵装は機雷だった。1回の任務で機雷を24個敷設でき、バルト海の狭い海峡や航路を封鎖する能力があった。水上艦艇であればソ連海軍によって撃沈されるおそれもあったが、潜水艦が機雷敷設で侵攻部隊を妨害するのを阻む手段はなかった。実際、バルト海での海戦は機雷に支配されることになる(編集注:たとえば1941年8月のタリン撤退戦で、クロンシュタットへ退避しようとしたソ連の艦船はユミンダ岬付近で広範囲の機雷原に阻まれ、ドイツ・フィンランド軍の攻撃で数十隻が沈没、軍人・民間人合わせて1万人以上が死亡するという甚大な損害を被った。ちなみにレンビットは当時、接収・編入されたソ連海軍側で行動している)。海事博物館では、ソ連による攻撃の脅威から国を守るため沿岸部に設けられていた多数の砲台にも、かなりの展示スペースが割かれている。

不幸なことに、エストニアは1939年、自国領内にソ連が海軍基地や航空基地を置くのを認めることを余儀なくされた(編集注:基地の設置は同年9月に締結された二国間の相互援助条約に基づくものだが、背景には前月に結ばれた独ソ不可侵条約の秘密議定書でエストニアがソ連の勢力圏に組み込まれたことがある)。当時、エストニア軍の現役兵力は1万4000人ほどだったが、ソ連はエストニアに2万5000人規模の兵力を駐留させた。1940年6月、ソ連はエストニアとの国境におよそ10万人の兵力を集結させ、エストニア政府に対し、実質的に親ソ政権の樹立と無制限の部隊駐留を要求する最後通牒を突きつけた。

パリは陥落したばかりだった。英国軍はフランス北部のダンケルクから撤退し、ドイツ軍による本土空襲(「ブリッツ」)などに備えていた。エストニアを助けられるような国はなかった。エストニア政府は降伏し、軍に対してソ連による占領に抵抗しないよう命じた。ただ、その後、ソ連に対する武装抵抗も始まった。「森の兄弟」と呼ばれるゲリラ戦士たちは、森林地帯などに身を隠し、地の利を生かして長期にわたって闘争を続けることになる。

エストニアはソ連による苛酷な占領に耐え、続いてナチ・ドイツによる苛酷な占領を経験した。さらに1944年には、再びソ連に占領されることになった。エストニアがようやく独立を回復したのは、それから50年以上が経過した1991年のことである。

つづき
https://forbesjapan.com/articles/detail/104801
2Ψ
垢版 |
2026/09/16(水) 14:19:01.80ID:1IV0Za0c
馬鹿だな
中立でよかったのに
中立国に侵攻したことないんだな
なぜかはちゃんと考えとくべき
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