夏は妖怪の季節。今も昔も、妖怪に心ひかれる子どもたちは少なくありません。河童や天狗、座敷童子など、おなじみの妖怪たちは、漫画やアニメなどを通じて親しまれてきました。一方で、古くから語り継がれてきた妖怪は、私たちが現在思い浮かべる「キャラクター」とは、少し異なる存在だったようです。妖怪はどのように生まれ、なぜ今のような姿で知られるようになったのでしょうか。兵庫県立歴史博物館学芸課長で、妖怪研究で博士号を取得した“妖怪博士”の香川雅信さんに聞きました。

■昔の妖怪には、決まった姿がなかった
――妖怪というと、甲羅を背負った河童や、鼻の長い天狗などが有名です。こうした姿は、昔から伝承されてきたものなのでしょうか。

 いいえ、もともとの妖怪はそういうものではありませんでした。

 古来、日本人にとって妖怪は、説明のつかない不思議な出来事を指す概念で、誰もが思い浮かべるような姿かたちは存在しませんでした。口伝えで語られるものだったので、全国共通のイメージはなかったのです。

 私はよく「病名のようなもの」と言っています。体調が悪くなったとき、病名がわからないままだと不安ですが、医師から病名を告げられると安心するし、納得しますよね。妖怪も同じで、身の回りの理解しがたい出来事を納得するためのものだったのです。

 それから、人智を超えた自然の恐ろしさをあらわすものでもありました。例えば、山への恐れは天狗や山の神、水への恐れは河童などという形であらわされてきたのです。

――子どもに対し「河童が出るから、あそこの川に行くな」と言うなど、妖怪には戒めのような役割もあったのでしょうか?

 その意味合いはあったと思います。ただし、戒めから妖怪が生まれたのかと言えば、それは違うというのが私の考えです。

 子どもが川で遊ばないように河童を創造したわけではなく、本当にそこで亡くなった人がいるから、「あそこの川は河童が出るから泳ぐな」と言われたわけです。怪異から生じるのが妖怪ですので、教訓や戒めは後づけだと考えています。

■江戸時代の妖怪図鑑は、ポケモン図鑑の原型か
――概念上の妖怪が、今のように親しまれる存在になったのはいつからでしょうか。

 江戸時代中期です。いわば妖怪が「キャラクター化」された時代ですね。

「本草学」(ほんぞうがく)といって、動植物などの自然物を観察して形と名前を記録していく学問が盛んになりました。それが発展して、妖怪にも統一された名前と姿が与えられるようになったのです。

 江戸の絵師・鳥山石燕(とりやま・せきえん)が『画図百鬼夜行』(がずひゃっきやぎょう)という妖怪図鑑をつくりました。これは、1頁ごとに1種類の妖怪が描かれていて、今で言うポケモン図鑑のようなものでした。

 また、ほかの絵師たちも妖怪をユニークなキャラクターとして描くようになります。「黄表紙」という大人向けの滑稽絵本には「見越入道」(みこしにゅうどう)や「豆腐小僧」などの妖怪が登場し、人気を集めました。ほかにも、「化け物双六」や「お化けかるた」「化け物づくし絵」といった子ども向けの玩具にも妖怪が描かれました。

「河童の色は緑色」という今では当たり前の姿も、江戸時代の絵師たちが描き始めたんですよ。河童を緑色だとする伝承はほとんどありませんでした。

――河童は何色だったのでしょうか?

 赤い色をしているとか、裸の子どものような色であるとかいった伝承はあり、また体に毛が生えているとされていたので、そうすると茶色いのかなということになり、どちらかというと暖色系だったのです。

 背中に甲羅をつけ、亀やスッポンなど爬虫類のような姿をしているというのも、もともとはほぼ江戸の河童限定のイメージです。全国的に見ると“猿型”の河童が主流で、哺乳類的なイメージだったのです。江戸が文化の中心になったので、少数派だった河童の姿がスタンダードになったのです。

つづき
https://dot.asahi.com/aerakids/articles/-/290439